|
さいとう・まさよし 1955年、稚内市生まれ。本名・正良。東京写真大短期大学部(現東京工芸大)卒業。稚内市役所に勤務していた2005年から毎年サハリンを訪問。15年に退職後、本格的に写真家として活動を始めた。写真集に「サハリンに残された日本」(北大出版会)がある。
|
「国境写真家」を自称する。サハリンに渡り、かつて南樺太と旧ロシア(ソ連)との間に引かれていた国境を見たり、太平洋戦争で日本軍と旧ソ連軍が戦闘を繰り広げた当時の国境、シュムシュ島(占守島)を訪問したり。なぜ「国境」にこだわるのか、どんな魅力を感じているのか聞いた。(聞き手・稚内支局 伊藤駿、写真も) ――国境にこだわっているのはなぜですか。 「サハリンが見える稚内で生まれ育ち、国境に興味がありました。境界線は本当に面白い。稚内にはロシア語の看板がたくさんある。こんな街はほかにあまりないですよね。国境には人と物が交流し、その土地独自の文化があります。サハリンには25回ほど行き、旧日ロ国境も見てきました」 ――稚内の樺太記念館で、占守島の写真展を開いていますね。 「1875年(明治8年)に樺太千島交換条約を結んでから、あそこも日本とロシアの国境でした。敗戦で武装解除し、帰国を待っていた占守島に突然ソ連軍が攻めてきました。日本軍は短時間で再軍備して対抗し、犠牲者はソ連の方が多かったと言われています。この戦いがなければ北海道の東半分はソ連領になっていたかもしれない。北海道を守ったんです。その島を写真を通して知ってほしかった」 ――普段は立ち入れない場所です。 「昨年7月、札幌の民間団体が慰霊祭を行うため島に渡ったので、同行しました。本当に驚きました。さびた戦車は70年前の状態で放置され、不発弾や手りゅう弾も転がっていた。遺骨も野ざらしになっていましたが、さすがに撮影できませんでした。あの島は時間が止まっているんです」 ――利尻山も撮影テーマのひとつですね。 「言葉に表せないほど美しく、時に厳しい姿を見せます。変化する様子を記録として残したい。2015年から本格的に撮り続け、毎年10景ずつ、百景まで撮るつもりです。利尻島もいわば国境。古代から海を渡る際は目印だったはずです。昔は漁師が山にかかる雲で天気を読んでいたそうです。さまざまな景色から暮らしに欠かせない山だということも知ってほしい」 ――今後どんな作品を生み出していきますか。 「日本だけでなく世界の国境を訪れ、写真を撮り続けたい。国境の街は戦争の最前線が多い。稚内にも宗谷岬の海軍の望楼など戦跡が残っています。それらを写真を通して見てもらうことが、平和につながる一歩だと思う。国境は国にとって一番大事です。紙が劣化するのは端からであるように、どんな物も端から劣化します。国境をおろそかにする国は滅びると思う。国境の街に住む者として、その重要性を発信したい」
|