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いとう・はやと 1972年、旭川市生まれ。高校を中退後、トラックの運転手に。「生まれ育った西神楽は離農者が多く高齢化率も高い。いつかは農業と観光で西神楽をもり立てる仕事がしたい」
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「農場カメラマン」。旭川市の伊東隼さん(45)がそう名乗って10年近く。農作業の光景を切り取った一コマ一コマの中で、農業に携わる人たちの表情が輝く。農家と契約を結び、PR用の写真を撮影するのが仕事だ。生活は楽ではないが「1次産業で生きる地域のために」との思いにかき立てられるという。その胸中を聞いた。(聞き手・旭川報道部 佐藤洋樹、写真・打田達也) ――農業専門の写真家ですね。 「収穫したアスパラを詰める箱にPR用の写真を載せたい、農場を宣伝するパンフレットを作りたい―。そんな依頼を受けて撮影に回ります。こんな仕事もありました。東京の保育園から、食育に使う写真が欲しいと頼まれたのです。トウモロコシが地中になると思っている子もいるという。種まきから、畑一面に小さな葉が開いた様子、間引き作業、小さな実ができた段階、そして収穫まで撮りました。季節ごとの風景を見せなければ、農家のことは分かってもらえません」 ――トラック運転手からの転身と聞きました。 「宅配で農家を訪れるうちに『農家も自分たちで売り込まなきゃならない時代だけど、宣伝の仕方が分からないし、自分で写真は撮れない』と相談されるようになりました。直接のきっかけは、田植え時期のあぜ道で出会ったおじいさんとの会話。カメラで1次産業を活性化する仕事がしたい、被写体になってくれと頼むと『変わったやつだな』と笑われました。でも『国は、農業を救うとは言うが農家を救うと言わない。日本の農業を変えてくれ。俺でよければ撮っていい』と言ってくれたのです。その方は1週間後に亡くなったのですが、会社に辞表を出しました。37歳の頃だったでしょうか」 ――すごい決断ですね。 「父親が厳しい人で、高校入学時から『自分一人で生きられないと何もできないぞ』と自活を求められました。実際にバイトを掛け持ちし、家賃も学費も稼ぎました。意地でしたね。でも安定にしがみつく必要はない、自分の信じるところを生きるという生き方がしみ付きました」 ――仕事の苦労は多い。 「生活はきついです。農家だけを撮る人は誰もいないと始めた仕事ですが、事業モデルもないわけです。最初はバイトで食いつなぎましたね。農家には警戒心を持たれ、何度も『帰ってくれ』と追い返されました。農家を回る『放浪の旅』ですよ。写真よりも農業のことを必死で勉強し、農作業の邪魔にならないような立ち位置を決めることに気を配るようにしました」 ――農家の人も心を開いてくれるようになった。 「はじめは一旗揚げようと野望もありましたが、最近はどうでもよくなった。僕の写真を『撮ってもらってよかった』『おかげで売り上げが上がった』と評価してくれる農家が増え、役に立てるのがうれしい。運転手に戻れば生活は安定すると言う人もいますが、この仕事を選んだからこそ知り合えた農家の方の信頼を踏みにじりたくない。これからも『農家の宣伝マン』として活動します」
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