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はました・ふくぞう 1930年(昭和5年)、船泊鮑古丹生まれ。男7人、女4人の11人きょうだいの長男。小学1年の頃から親を手伝い、17歳で独立。32歳で鋭子さんと結婚し、約50年連れ添った。独学で始めた書道が評判になり、個展を開いたことも。船泊鮑古丹地区最後の漁師。
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礼文島北部の船泊鮑古丹(ふなどまりあわびこたん)地区に1人で暮らし、自作の詩を書にしたためるコンブ漁師で書道家の浜下福蔵さん(87)。大きく書いた文字の両脇に詩を添え、時には筆で絵も加えるのが浜下さんのスタイルだ。力強くあたたかな作品や人柄に心動かされ、全国各地から浜下さんを訪ねる人が絶えない。厳しい自然の中で、書道に向き合う思いを聞いた。(聞き手・稚内支局 岩崎志帆、写真も) ――書道を始めたきっかけは。 「父親がその日の海や漁の状況を記録する『漁師日記』を続けていて、俺も独立した17歳くらいから始めた。最初は天気や波の高さを鉛筆でノートに書いていたけど、そのうち筆ペンや筆でその日の心境も書くようになった。約30年前から式典の題字などを書かせてもらうようになり、13年ほど前からは大きな作品にも取り組むようになった」 ――言葉はどう選ぶのですか。 「その日の海を見て決める。風や鳥の鳴き声などの自然の呼び掛けがなければ何も書けないし、自分の目で見たものしか書かない。何となく心に曇りがある日は全然だめなんだ。書は心のかじ取り。一度勉強しようと書の本を買ったこともあったけど、全く良いと思えなかった。知り合いの書家の先生に相談したら、『身体に合った字を書いた方がいい』と言われ、それ以降は自分で考えてる」 ――好きな言葉は。 「北の恋風。ある人から恋愛の相談をされて書いたところ、評判が良くて何千回と書いてきた。あとは漁師だから大漁もいいね」 ――船泊鮑古丹地区の住人は、浜下さん1人になってしまいました。 「昔は5、6軒いたけど、魚もいなくなり、いつしか母さん(妻の鋭子さん)と2人だけになった。5年前に母さんが亡くなって半年は漁師日記も書けなかった。それでも朝起きて火をたいて、海を見て、窓に当たる風の音を聞いていれば、自然の力をたくさん感じる。毎日おかずを持って来てくれる長男のお嫁さんの心遣いやみんなの声掛けもあって励まされている。やっぱり人は人の力で生きているんだなと感じるね」 ――生まれ育った礼文島をどう思いますか。 「今も『花の島』と言われるけど、子どもの頃は今の比じゃないくらい花が咲いていた。魚もいなくなった。それでも礼文には漁の手伝いや観光で若い人がたくさん来る。人が来るのは島に力があるからだと思う。それだけの魅力や風景がある。小さい時からここで一生懸命働いて、生きていくことが染みついてる。ここから出たいと思ったことはない。死ぬまでこの自然に囲まれていたい」
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