飼っている3匹の猫の1匹が昨年11月にがんの診断を受け、ひと月前に僕の腕の中で首をカクンと後ろに落として事切れた。 極度の食欲不振に陥り、餌を受けつけない。時折ほんの少々水を飲むだけ。やせ細り背骨が浮き出て痛々しい。膝に置いてなでさすってやるたびに律義に尻尾を振って反応してくれた。ついには水をなめることもできなくなり、長い時間を耐え抜いて最期を迎えた。 そうした特別な時間の中で、僕は高橋和巳の小説「邪宗門」を思い出していた。新興宗教による世直しを夢想して破滅の道に突き進んだ主人公・千葉潔は、絶食絶飲による餓死を実行して自己を完結させる。 愛猫の衰弱死から人間の餓死に思いを巡らせていた矢先に、宗教学者の山折哲雄氏が新聞のコラムに書いた「『安楽死』による最期に思う」と題した一文に出合った。 スイスの病院で安楽死を遂げた女性を念頭に氏は「あなたはなぜ、断食による最期を迎えようとされなかったのですか」と問う。「断食による最期」が、主体的な死を選び取ることを可能にする選択肢の一つになりうる、ということか…。 現代医療による安楽死を超える、実行可能な自己表現手段としての断食―。のっぴきならないテーマのようにも思える。愛猫の死から多くのことを考えた。
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