新聞は、礼文島の近現代の歴史を調べる上で重要な資料の一つである。1885年(明治18年)に小樽との定期航路が開かれたことから、古い小樽の新聞に島の記事がよく見つかる。ニシン漁の様子や神社の祭典、火事や泥棒の話題など日々の暮らしに関わるものが多く、新聞ならではの内容である。 実は昨年末、稚内市樺太記念館において新聞記事を通して礼文島を紹介する機会に恵まれた。その際に取り上げたのは小樽の新聞ではなく、旧日本領の樺太(現ロシア・サハリン島の南半分)の新聞である。 樺太は、日露戦争後にロシアから得た領土であり、明治末期から昭和初頭までさまざまな新聞が各地で刊行されていた。一部は、現在道内の図書館で保管されているものもあり、当時の様子を知ることができる貴重な資料となっている。 1905年(明治38年)刊行の樺太新聞には、礼文島や宗谷管内の記事が多く掲載されている。漁業や海難事故の様相、出征軍人の論功行賞、医師や産婆(助産師)の数といったもので、日常生活に必要な情報ばかりと言えよう。 礼文も樺太も、移住者によって開拓され発展してきた島である。全く馴染(なじ)みのない見知らぬ土地での生活の中、移住者にとって新聞は今以上の価値を持っていたに違いない。 |