北海道新聞旭川支社
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北極星

藤沢隆史(礼文町教委主任学芸員)*旧村の面影 2019/05/19

 礼文島では1878年(明治11年)に4村が置かれ、その後、船泊(ふなどまり)、香深(かふか)の2村体制が長く続き、1956年(昭和31年)に両村が合併して1村となり、現在の礼文町へとつながる。

 島の北部、旧船泊村に置かれた礼文神社は、江戸時代末の1863年、青森津軽の人々が島で唯一の湖のほとりに神霊を祀(まつ)ったことが創始と伝えられる。

 この祠(ほこら)は、明治に入ると沼神(ぬまがみ)神社と名付けられたが、1899年(明治32年)に礼文神社と改称し、4年後に現在地に社殿を建立。長く村民の心のよりどころとなってきた。

 この礼文神社に、大量の古文書が保存されていることが分かったのが2005年のこと。調査の結果、その数なんと967点。これほどの量の文書が発見された例は過去にない。

 その中でも特に貴重な文書が、1903年から94年までの90年間に及ぶ祭典に関する資料である。その内容は、寄付者名簿や祭典日誌、買い物帳や領収書などで、祭典の詳細がわかるだけでなく、当時の商店や世帯数、氏子名など、村の様子もうかがえる。

 旧船泊村が礼文町となって60年が経過した。かつて4千人を超える人々でにぎわった村も年々空き地が目立つようになった。古い村の記憶が遠くなりつつある今、古社に伝わる記録のみがその面影を伝えている。


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