先のサッカーW杯の日本―ポーランド戦での西野朗監督の采配を巡って、賛否両論が渦巻いた。いわくフェアプレーよりも勝利を優先させていい。セネガルの無得点をあてこんでの賭けに出た決断は「結果オーライ」で済まされるのか―。 で、僕はといえば、賛否どちらの言い分も理屈にかなっていて、白黒つけられる問題ではない。このケースでは唯一の「正解」は存在しない―という見解に落ち着いた。ただし、ことスポーツの世界では「正解」を求めるべきでないということではない。 飛躍した話になるが、大相撲の取り組みで、劣勢の力士が「引き」をいれることがよくある。引いたら勝てないとわかっているのに、苦し紛れに引いてしまう。愚かだ。たとえ負けを食らっても絶対に引かない。これこそが土俵上の「正解」なのだ。 では、政治の世界はどうか。「こちらももっともだし、あちらも間違ってはいない」という「正解なし」の予定調和的な態度は、外面がいいだけに要注意だ。政治は「正解」を避けては堕落する。 だから、参院の定数増を決めた改正公選法の強行採決は、政権党のあからさまな利益誘導という一点において明らかに不正解である。ゆえに「このような政党には選挙で一票を入れない」と提案したくなるが、さすがにそこまでいくと「正解」の押し付けになるか。
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