明治時代初め、礼文島には本州からさまざまな人たちが渡ってきた。その多くは青森などから来た漁民であったが、礼文町史にも載っていない異色の移住者たちがいた。それが公認移住者7人組である。 1869年(明治2年)、北海道に開拓使が設置されると、政府の開拓募集に応じた約100人が東京から宗谷地方へ移住した。しかし、その3分の1が厳寒な気候によって死亡し、2年後、残った人たちは札幌への移住を命じられてしまう。 この時、礼文島へ移住を志願して許されたのが、戸松庄助、小池忠兵衛、森川磯吉、松野長吉、鈴木倉吉、増川源太郎、深沢平吉の7人である。ただし、戸松庄助だけは加藤梅吉という10代の青年を連れていた。 加藤梅吉は、父常吉に連れられて来たが父は病没してしまい、戸松庄助に見込まれて島へ渡った。その後、春はニシン漁の漁夫、夏は昆布採取、秋は宗谷地方のサケ漁へ出稼ぎ、冬は材木伐採をするなど、身を粉にして働いたという。 その結果、わずか2年で雑貨店を開き、その後は海産問屋や建網漁場の経営にも乗り出した。1884年、戸松庄助の長女と結婚、戸松梅吉となって家督を継いだ。島に渡って15年目のことである。 公共事業への出資や村の総代なども務め、開拓功労者となった戸松梅吉。都会から来た青年は、はるか最北の島でどんな夢を描いたのだろう。
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