明治維新の翌年、北海道には行政区域として11の国と86の郡が制定され、礼文島は北見国礼文郡となった。 一方、礼文島から直線距離で1600キロあまり離れた熊本県は肥後国と呼ばれていたが、熊本と礼文に関係があったことは、ほとんど知られていない。 1902年(明治35年)、香深村2代目村長に熊本出身の林田則友が就任した。1918年(大正7年)の記録によれば、村政の混乱を立て直し、さまざまな事業により村の発展に尽くしたとある。中でも功労が顕著であったのが、小学校の移転と道路の開削であった。 火災や雪崩で失った小学校2校を周囲の反対や非難をものとせず、それぞれ別の場所に移転させた。うち1校は2005年に閉校したが、もう1校は現在でもその場所で教育活動を営んでいる。 また、断崖絶壁が続く島の東側香深井地区から内路地区では、5年をかけて道路を開削、これにより島の南北が道路で結ばれることになった。この道路は今でも島の幹線道路である。 もう1人の肥後人は、俳人の上村占魚(うえむらせんぎょ)である。1920年(大正9年)に人吉市に生まれ、高浜虚子に師事した後、俳誌「みぞさざい」を主宰した。61年に初めて島を訪れた以降、何度か来島したようだ。親交のあった島の人たちが88年、スコトン岬を望む展望台に句碑を建設した。この展望台は今でも大切な観光スポットである。 今回はある人から頼まれて調べたことだが、こういう話はまだまだ他にもありそうだ。改めて島の歴史にはさまざまな人が関わってきたことを実感した。
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