子どものころ、「うるしの木に近づかないように気をつけるんだよ」という母の声に送られて、近所のガキ大将グループとともに、市街地の西の新学田地区に山ぶどうを採りに出かけた。戦後開拓によって開かれた一帯は、馬車が通れるだけの踏み分け道だけが通っていた。 大学に入ったころ、道内文芸誌に、ある文芸評論家が「赤や青のトタン屋根の連なる原色の士別の街並が嫌い」と書いていたことが腹立たしかったが、同じころ、全国的文芸誌で気鋭の小説家が「私の好きな風景」は「北海道士別市の西の丘から望む牧歌的な街並」と語っていたことを同郷の友と喜び合った。 戦後開拓で入植した人たちは、ほぼ20年ほどで離農していった。市ではこの一角にオーストラリアから羊を輸入して綿羊基地を造成するとともに、「北方圏文化村構想」を策定し、この一帯に北欧から移入したサウナビレッジを造成し、芸術家たちの別荘やアトリエ、学術関係の研修施設を展開しようと考えた。構想は頓挫したが、サフォーク・ランド士別の取り組みは受け継がれた。 丘の頂に建つ羊飼いの家からの眺めは、なだらかな草地に連なって街並みが広がり、空気の澄んだ日には、遠く大雪山連峰が望めるまさに心にしみる絶景である。 殊に、一帯を覆う羊雲が夕暮れの赤紫色に染まる中を、羊たちが羊舎に帰っていく場面に遭遇したなら、とても言葉は出ない。
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