北海道新聞旭川支社
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北極星

桑原隆太郎(名寄・文化団体事務局長)*昭和45年のこと  2016/03/16

 38歳で旧風連町役場に転職して、最初の配属先が教育委員会の社会教育課だった。公民館事務局を兼ねていて、住民と直接かかわることの多い職場は民間上がりの私に向いていた。

 当時は職員がいわゆる社会教育関係団体の事務局を担うことが多く、その中でも文化協会は大御所だった。10年ほど経験して人事異動で教育委員会から転出する時、文協役員の「役場の職員は異動したが最後、もう文協とは何のかかわりも持とうとしない」との苦言に反発して、異動後も事務局を引き受けるようになって今日に至った。

 過日、その文協の創立45周年記念式典があり、感慨深かった。私たちの文化協会が設立された昭和45年(1970年)は、式典の来賓であいさつした、加藤剛士市長が生まれ、堀江英一風連商工会長が農業高校を卒業した年であった。そのことを印象深く聞いた。

 私はと言えば、京都で学生生活を送っていた。前年に機動隊に守られての封鎖解除がもたらした「正常化」が既成事実化する中で、日和(ひよ)って授業に出た。そんな私に届いた母からの手紙に、その年に始まった国の減反政策を悲観して町内の農家が自死した、という大きな扱いの新聞記事の切り抜きが同封されていた。忘れられない私の昭和45年である。

 当時の風連町の人口は8800人。今の風連地区の人口は4100人。45年間で半分以上も減った。「過疎化の進行」の一言で済まされる話ではない。経済成長と東京一極集中に走り、地域と地方分権をないがしろにした国づくりに突き進んだ罪は根深い。今更ながら、悔しい。


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