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| せがわ・けんいち 深川市生まれ。明治学院大卒。1974年単身渡仏。18年間パリ、ロアール、南仏地方の約25のレストランで料理人活動。79年パリ・ソフィテルホテル(4つ星)料理長。87年からパリでレストラン経営。92年帰国。96年旭川で「ブランシュネージュ」開店。有限会社「グランシェフ」社長。94年フランス料理アカデミー「ディプローム賞」受賞。56歳 |
――十八年間、フランスで料理の腕を磨き、フランス人よりフランスらしい料理を作るシェフとしての輝かしい地位を確立して九二年に帰国されました。なぜ首都圏などの大都会で高級料理店を持つという発想にならなかったのですか。
「まず、北海道にご恩返ししたかった。具体的には大都会でフレンチの食文化を伝えるのでなく、北海道でだれからも愛される店、『おふくろの味』が楽しめる店を持つことでした」
――なぜ旭川で?
「故郷深川に近く、ほどよい大きさだから。たまたま一時帰国したとき、この隣の教会で行われた妹の娘の結婚式に出席しました。パリ郊外を思わせるような素晴らしい町並みが気に入りました」
――日本でのフランス料理はどうも高級感が付きまといます。
「たしかに一部の人しか行けない、敷居が高いと感じる人が多い。なぜ日本にそんな料理しか伝わらなかったのか。自分の目指すフレンチは複雑でしゃれた料理ではなく、素材がはっきりわかる、洋食を食べたこともないおじいちゃん、おばあちゃんにおいしいと言ってもらえるような料理です」
――私も何度かコースもいただきましたが、丁寧で味わいの深い料理。しかも割安です。オーナーシェフとして心がけていることは?
「うちの献立表には難しいフランス語はありません。料理より高いワインでなく、テーブルワイン程度を置き、地酒(日本酒)も用意しています。フランス料理店で箸(はし)は使いたくても言い出しにくいもの。だから最初からナイフ・フォーク類とセットにして出しています」
――一流の料理を追求したフランス時代と、帰国後では瀬川さんの目指すものが変わったように見えます。そのきっかけになったのは?
「帰国したとき、今も懇意にしていただいている帝国ホテル総料理長(現顧問)の村上信夫氏からいただいた『料理だけに終わらせるな』という言葉です。フランス料理の背景にある歴史、教育、習慣を伝えていくことだと理解しました」
――長い料理人生活を通して見たフランス社会は?
「プロに徹している。特にサービス業は。これでメシを食っているというプライドはドアボーイもギャルソン(給仕)も持っています。そして若くても、仕事の出来る者が上という社会です」
――厳しいプロ集団の競争社会でのし上がるには想像を絶する努力があったでしょう。フランス料理を学ぶ外国人への差別は?
「厨(ちゅう)房ではプライドがずたずたになるほど罵(ば)倒されながら修行しました。ゴミ箱を漁ってソースの味や、日本では見たこともない野菜の味を覚えました。でも実力をつければ外国人でも認めてくれました。先輩からしごかれる私の一部始終を見ていたのはアフリカ、中近東、東南アジアなどからの単純労働者でした。『お前はおれたちの誇りだ。立派なシェフになれる』と励ましてくれた。厨房で得たさまざまな『まごころ』が私の勲章であり料理人として原点です」
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