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ヒューマン

大島 墉さん(68)*須田剋太・島岡達三美術館新星館(美瑛)館長*私財投じ古民家に絵と陶芸*時代の名作を文化に     2008/10/05

<略歴>
 おおしま・よう 1940年、大阪府布施市(現東大阪市)出身。須田氏の作品約700点、島岡氏約600点を所有する。2001年、美瑛町新星に新星館を開設。開館は4月25日−11月3日で、期間中無休。(電)0166・95・2888。

 豆や小麦、ジャガイモなどの畑がパッチワークを織りなす美瑛町。十勝連峰を望む丘に新潟から移築した築200年の古民家が建つ。画家須田剋太(こくた)(1906−90年)、陶芸家島岡達三(1919−2007年)両氏の作品を紹介する美術館「新星館」だ。館長は大阪出身の飲食店経営大島 墉さん(68)。“お好み焼き屋のおっちゃん”が私財を投じた異色の施設の将来像や作品、作家への思いを聞いた。(旭川報道部 水島久美)

 −−作品を展示する須田、島岡両氏はどんな作家ですか。

 「須田さんは、司馬遼太郎さんの『街道をゆく』の挿絵を19年間描いた人です。ガッシュや油彩ですが東洋的で個性が強い。金もうけでは描かず、特定の画商もほとんどついていなかった。ここには東大寺などの風景画や人物画と書など120点を展示しています。こんなにいい絵を描くことが、挿絵に比べてあまり知られておらず、埋もれた画家と言ってもいいと思います。島岡先生は、縄文象嵌(ぞうがん)という独自の技法を作り出した益子焼の作家で、重要無形文化財保持者(人間国宝)です。派手ではないが、他の作家にない魅力がある。館では120点の器類を紹介しています。2人とも控えめで、そんな人柄も好きでした」

 −−お好み焼き店と喫茶店を経営する大島さんが、なぜ美術館を造ったのですか。

 「私は結婚した27歳の時から島岡先生の作品を集め始めました。食べることが好きで、良い食器を使いたかった。年をとったら有名な陶芸家の器を使って小料理屋をしたいという考えもありました。それが集めるうちに、美術館に変わっていったんです。一生懸命やっていれば、自分の作品を集めて記念館を造ってくれる人もいると、作家を勇気づけたかったのです」

 −−開館にあたっていろんな場所を見て歩いたそうですね。

 「山と丘があり、いろいろな作物の畑がパッチワークになっている。この景観は美瑛しかない。初めて来た時に『ここだな』と思いました。北海道に行くと言ったら、(妻と)離婚騒動みたいになりました。だけど、見に来て『いいものができた』とびっくりしていた。開館期間中(4−11月)は単身赴任していますが、いずれ妻を呼び寄せたいと思っています」

 −−須田さんを紹介してもらうなど、司馬さんとも交流があったそうですね。

 「大阪で通っていたマッサージ屋さんが一緒で、知り合いました。司馬先生が亡くなってから知ったのですが、私を小説にしようと考えたことがあったそうです。私は大学時代に東京で勉強の傍ら、機械工具販売を始めて成功しました。でも卒業後に株に手を出して失敗、借金を抱えました。大阪に戻って、食べていくために14坪(46.2平方メートル)から始めたお好み屋を繁盛させて、120坪に広げた。そんな人生に興味を持ってくれたのでしょうか」

 −−新星館は今後、どんな展開を考えていますか。

 「ここに来るのは50−60代の時間がある人が多い。作品を見て、ゆっくり出来る場所が欲しいはず。新星館の隣に喫茶店かそば屋を造りたい。私を金持ちと誤解する方も多いですが、借金が1億円以上あります。でも怖くない。いざとなったら作品を全部売れば返せます。最終的には島岡先生と須田先生の記念館をそれぞれ造りたい。時代、時代の名作が何百年と残れば文化になる。文化でも何でも頑張っているのが値打ち。今、お客さんが来なくても頑張っているのが100年、200年後の肥やしになる、この美術館は絶対残る、そう思っています」

記者のメモから

 「お客さんが来ないから困ってますねん」。開口一番、本音の物言いが印象的だった。1億円を超す借金も「怖くない」と腹が据わり、「こんなアホな人間いないでしょ」と言い切る姿は、言葉とは裏腹に誇らしげでエネルギッシュ。圧倒された。

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