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ヒューマン

牧田雄一郎さん(60)*旭山動物園で開園以来勤務し今月末で退職する飼育員*動物たちとともに40年*今後も地元に密着を   2008/03/23

<略歴>
 まきた・ゆういちろう 旭川市で生まれ、国鉄勤務の父の転勤で道内各地を転々として育った。1967年7月1日の旭山動物園開園に先立ち、6月に市臨時職員として採用され、翌年から正職員に。妻と2人の娘、スッポンやトカゲ、コイなどの動物と旭川市内で暮らす。

 年間300万人が訪れ、今や“旭川の顔”ともいえる旭山動物園。40年前の開園の時から、入園者減で寂れた時代を経て、全国区の人気となるまでをともに過ごした最古参の飼育員、牧田雄一郎さん(60)が3月末、定年退職する。長年、動物たちとかかわってきた日々の思い出と、動物への温かい心遣いを聞いた。

(旭川報道部・小川郁子)

 −−飼育員になったきっかけは何ですか。

 「小さいころから山でヘビやサンショウウオを捕ってきては育てる動物好き。小学生時代、札幌・円山動物園の近くに住んでいて動物園は身近な存在で、飼育員になりたいと思っていました。採用された時、旭山動物園は施設建設の突貫工事中。次々と動物が入ってきて、大きなゾウに初めて触った時は感激でぼーっと見上げていました。最初はフラミンゴやペリカンなど水鳥とアザラシ、アシカなどの担当。今のようにテレビの動物番組もインターネットもなく、飼育方法は図鑑で調べるか、そのころ道内にあった円山、帯広の両動物園に教わるくらい。私たちも苦労したが、動物たちも環境が変わり、大変だったろうと思います」

 −−思い出深いのは、どんな出来事ですか。

 「オランウータン以外、ほとんどすべての動物を担当したが、印象深いのは72年に入ってきたゴリラ。メスで外見はデカくてごついが、繊細で神経質。新しいエサをなかなか食べず、目の前で私が食べて見せて安心させ、ようやく口にするようになった。数年後にはオスも入れ、ペアに。その後、担当は外れましたが、94年にオスがエキノコックスに感染して死亡し、動物園は途中休園になりました。まさかという気持ちでした。外柵にバラ線を巻き付けたりとキツネの侵入防止策をとったが、96年には入園者が26万人と過去最低に。子どもの歓声が途切れた動物園は辛いものでした。

 同期で入った飼育員が72年にアジアゾウに襲われて亡くなったのもショックでした。危険が伴う仕事だと実感し、まさか定年まで勤め上げることができるとは思いませんでした」

 −−その後、最初の行動展示施設といわれる「ととりの村」オープン(97年)などで、躍進の時代が訪れますね。

 「98年にもうじゅう館ができた時には、ヒョウなど、モップみたいな大きな足の裏が見えたら、お客さんは喜ぶだろうなと確信しました。ほっきょくぐま館ができ、(2003年に)入園者が80万人を超えて以降はうれしい反面、信じられずにぼうぜんとしているという感じです。一方、お客さんの意識やマナーも向上しました。昔は投げつけられたたばこの吸い殻でライオンのたてがみが燃えたり、ゾウガメの鼻にたばこの吸い殻を詰められたりもした。そんな時代に今の展示方法をしても、棒で動物を突っつく人がいたりして、混乱しただろう。時代にも合ってたんだろうね」

 −−今後の旭山動物園に、何を期待しますか。

 「昔は飼育員は動物の見せ方なんて考えもしなかった。だから、飼育員のワンポイントガイドが始まった時には人前に出るのがいやで。動物相手に飼育員やっているのにと、恨みがましい気持ちで閉園後にゴリラ相手に練習した。でも、今は飼育員たちも見せ方を考え、工夫を続けるということを学んだ。この伝統は続く。ただ、あまりににぎわいすぎて、旭川市民が敬遠するのでは本末転倒。地元の人に愛され、旭川の子どもたちがいつでも来られる動物園であってほしい」

記者のメモから

 年に何度か、猛獣に追いかけられたり、動物舎の鍵をかけ忘れたりする夢を見るという。「好きなことができた」と40年の飼育員生活を振り返るが、言葉を話さない動物たちと接するのは、緊張の日々だったのだろう。「退職したら、こんな夢も見なくなるのかな」と笑う目元から、少し寂しげな雰囲気と、動物への愛情が感じられた。

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