北海道新聞旭川支社
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ヒューマン

板津邦夫さん(74)*「青銅会」を40年余にわたり指導する彫刻家*彫刻は一番素朴な芸術*自分さらけ出し作る 2005/11/06
板津邦夫さん

<略歴>
 いたづ・くにお 札幌市出身。札幌東高、東京芸大美術学部卒業後、1961年に道学芸大旭川分校(現道教大旭川校)の助手になり、95年に教授で退官。木の特性を生かした、自由で斬新な作風で知られる。65年に自由美術賞を受賞。道展会員。

 道教大旭川校の彫刻ゼミの卒業生らでつくる彫刻グループ「青銅会」の作品展が十二月十一日まで、旭川市彫刻美術館(旭川市春光五の七)で開かれている。「彫刻のまち旭川」を支えてきた同会会員たちが同美術館で作品展を開催するのは今回が初めて。その青銅会を設立から四十年余にわたり指導してきたのが同大名誉教授の板津邦夫さん(74)だ。来年夏には、自身も道立旭川美術館での回顧展を予定している。木材の豊富な旭川の利点を生かしながら、全国的に評価される作品を発表し続けてきた作家の彫刻に寄せる思いを聞いた。(旭川報道部 市村信子)

 −−彫刻家を志したきっかけは何ですか。

 「中学二年の時に、彫物師だった父が病気になったので、仕事を手伝ったのが最初です。ちょうど戦後、進駐軍が札幌にいた時期。進駐軍のおみやげ用に、木製のアルバムの表紙に進駐軍のマークを彫るんです。こう、二枚の板の間に紙を挟む簡単なアルバムで、今思うと大したものではないのですが、みんな喜んで買って行きましたね。気が付いたら木彫を極めたいと思うようになってました。そして、芸大に進んだのです」

 −−東京芸大では旭川ゆかりの彫刻家中原悌二郎の親友で、あこがれの石井鶴三(つるぞう)さんの指導を受けたのですね。

 「“石鶴先生”には『彫刻でメシ食おうと思ったら、乞食(こじき)をするつもりでないと』とまで言われました。まじめに頑張りましたよ。彫刻は一番素朴な芸術。絵画のように平面に置き換えないで、立体をそのまま立体で表現するんだからね」

 −−板津さんが一九六一年に当時の道学芸大旭川分校(道教大旭川校)に赴任したころは、旭川の彫刻界はどんな状況でしたか。

 「美術館も野外彫刻も、彫刻に関するものは何もなかった。住んでいた官舎もひどくて、壁から外が透けて見えるような家でした。でも、大学の近くにたくさん木工場があったんです。いろんな材料で彫り方を試すことができて、そういう意味では恵まれていました」

 −−青銅会は一九六四年の設立。会員の皆さんは「指導は厳しい」と言っていますが。

 「細かいことは言いません。黙ってじっと見ています。ただ、本質的な美しさをつかむまで妥協しちゃいけない、とは言ってきた。そうでないと、いつまでたっても伸びないから。それと、制作時間を長く取らないとだめですね。すぐにできるものは、すぐ駄目になってしまう」

 −−振り返って印象深いことは何ですか。

 「旭川に来て四年後に東京・銀座で開いた個展です。私は本来、怠け者なんだけど、東京での初めての個展ということもあり、いや応なしに作らざるを得なかった。それが評価されて、自由美術賞を受賞しました。『自分らしいな』と思う作品は、道立旭川美術館にある『風神・雷神』(一九九○年作)です。自然の厳しさを表現しようと、思い切り作りました」

 −−来年は道立旭川美術館での回顧展です。本格的な個展は十年ぶりですね。

 「見られる、というのはつらいですね。自分をさらけ出すような思いで作ってきたから。いいところも悪いところも出てしまう。でも一般的なことを言えば、いろいろな人にもっと芸術に関心を持ってほしい。芸術作品って、よく見ていれば、だんだん面白くなってきますよ」

記者のメモから
 彫刻への思いを聞くと「仕方なくやっているだけ」と淡々と答え、指導方針を尋ねても「何もしなかったよ」とかわす−。取材する側は少々困惑したが、自らの業績の多くを語らない、謙虚な人柄を慕う人は多い。「自分をさらけ出して作ってきた」という彫刻を見つめるまなざしが、吸い込まれるように深く、美しかった。
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